三陸の海に響け「ふるさと」の歌声

これは、治療の聲 第13巻1号(星和書店)という精神医学の学術誌に掲載された私の文章です。他の執筆者は医療関係の高名な方々ばかりで、何だか紅白歌合戦にいきなり田舎のスナックの常連カラオケ親父がまぎれこんでしまったような、ものすごい場違い感がありましたが、書くにあたって深く被災地のことを考え、自分の活動を振り返ることができて、とても良い経験となりました。何一つ学術的なことは書いてませんが、昨年の今頃の私が感じていたことを正直に綴ったものです。良かったらご一読ください。
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「その人はまるで中国の仙人みたいに白い髪と髭を伸ばした背の高い人で、とても面白い恰好をしていました」
 壁一面に手芸教室で作ったふくろうのマスコットが飾ってある仮設住宅談話室で、お茶を飲みながら一人の女性が、突然私に向かって語ってくれたお話です。
「面白い恰好というと」
「男の人なのにスカートを履いていました。仕事はお菓子の行商をしていたけど、暇になると海の一望できる高台に登ってよく編み物をして。できあがると、近所の子供たちにあげていました。昭和30年代の思い出」
 この話を聞きながら、他の参加者たちも「そうそう、いたいた」「おぼえてる」「懐かしいわねえ」と同調しはじめ、みんなでかつての暮らしぶりや、ふるさとの風景を懐かしんでいました。
 仮設住宅に住む人々に向けた音楽療法では、半分くらい歌そっちのけで世間話や昔話をしていますが、段々と私も三陸の町のかつての姿かたちを想像できるこの時間が楽しみになっていました。同じ県内とはいえ、内陸と沿岸では言葉も風習もだいぶ違うので、そこで聞きおぼえたことは活動を終えて自宅に戻ってから、細かくノートに書き記す習慣がつきました。
 私の通う三陸の町では、親類や近所で不幸があった時は「とうふずるがでだ」と言うそうです。お悔やみの席で出る精進料理の「豆腐汁」が訛った言葉ですが、慇懃で婉曲的なものの言いまわしは、土地に住む人々の朴訥で頑固な性質や、人づきあいの濃密さを感じさせます。
 この町の人々と一緒に歌うようになってから、一年半近くが経過しようとしています。「心に傷の残るような体験をした人々に対して、楽しい体験を新たに積み重ねていく手助けが音楽療法には出来るよ」と教えてくれた恩師の言葉を胸に、私は毎週土曜日になると内陸から三陸に向かって車を走らせる日々を送っています。
・震災直後
 幼いころから慣れ親しんだ三陸沿岸の美しい風景をどす黒い大津波が飲み込み、人々の暮らしの礎を暴力的に流し去っていったあの日、私は東京の知人宅でテレビ画面を無言で見つめていました。遥か遠方のカメラが写しだした昂る波濤は、まるで生成りの布地が泥水を吸いこんでいくように陸地へと浸出し、ふるさとの形を変えていきました。多くの日常と人々の未来を奪って行く恐ろしい光景に、私は激しく打ちのめされました。
津波発生から数日の間、被災地に住む親せきや知人の安否確認と地元へ帰る手段の獲得に明け暮れ、一週間後にどうにか飛行機と自動車で帰宅することができました。
半月後、海辺にある仕事先の保育園卒園式に出席するため、三陸を目指しました。リアス式海岸をのぞむ国道の荒れきったアスファルトを長距離走行した愛車は、瓦礫の破片によってタイヤがやられて、内陸に戻った時には二度と使い物になりませんでした。
 震災後、被災地となった地域に暮らす音楽療法士たちは、各方面で開始された被災地支援を見ながら、自分たちに一体何ができるのだろう?という思いを巡らせました。日本音楽療法学会東北支部会員に向けた安否確認を実施した際、返信欄には「今すぐ被災地で活動したい」という熱い意見と、「自らも被災して何も出来ないのがもどかしい」という悲痛な声などが書かれていました。私は様々な支援を寄せてくれた全国の皆さんと、自らも被災者となり傷付いている東北支部会員に向けて、感謝の気持ちと現状報告を綴った文章を学会のホームページに寄稿しました。
「東北在住の音楽療法士としては、早く現地を訪れて音楽で人々を慰めたい、力になりたい‥と気が急いていますが、被災地ではまず生きること、町を立て直すこと、日々の営みを取り戻すことが優先されております。人に頼ることや弱音を吐くのが不得手な東北の人々が、音楽に耳を傾ける余裕が出来る時期を、辛抱強く待たなければなりません。その
間に出来ることは、我々自身も被った心の傷を自覚し、他者に音楽を届けられる状態に復元する努力と、音楽療法開始のその日に向けた入念な準備です。安全な土地に避難された方々に向けた活動をすでに開始された方もいて、そちらのサポート体制作りは早急に行いたいと思います。」
「東北支部よりお礼とお願い」智田邦徳 日本音楽療法学会サイトより転載・引用
私個人も、いつになったら被災地支援を開始できるのか、全く見通しが立たない間は焦りばかりが先に立ちましたが、チャンスを待つ間に阪神淡路大震災で支援活動を行った音楽療法士の報告書や、インターネット上でPDF形式で配布されていたサイコロジカルファーストエイド、兵庫教育大学の冨永良喜教授(臨床心理学)が提唱している災害後の心理援助三原則「ケアは継続できる人が行うこと」「感情表現は害になることも」「アフターフォローのないアンケートは禁止」などを何度も読んで頭に叩き込みつつ、どういう立ち位置で臨み、自分に何が出来て何を行うべきか(行わないべきか)を考え続けました。
ある日、地元放送局のニュースで、私の被災地支援活動の在り方に大きく影響を与えた印象的な場面を目の当たりにしました。
それは避難所となった学校の体育館に疲れ切った様子で横たわる被災者のすぐそばで、慰問に訪れた音楽家がバイオリンで唱歌「ふるさと」を演奏している映像でした。演奏を聞いている人々の反応も、段ボールの上に一枚の布団を敷いただけの粗末な寝床で顔を伏せたままの人、演奏家に向かって手を合わせている人など様々でした。どんなに疲れていようが、遠くから善意で駆けつけた支援者に対して、感謝の気持ちをあらわそうと懸命に努める被災者の姿に、私は名状し難い違和感をおぼえました。
画面から伝わるあまりに侵襲的な音響の膂力は、「音楽」の意味さえ失っているようにも思え、この記憶はこれから被災地で音楽療法を始めようとする私の心の奥深い場所で長い間、鈍い痛みとして疼き続けたのです。
・避難所巡回
 四月初旬、震災直後から支援活動を開始している現地の音楽療法士から、訪問先が多く一人ではまわりきれないので何箇所か分担して手伝ってほしいという依頼があり、今か今かと待ちかまえていた私は二つ返事で引き受けました。
初日、日没後の海沿いは外灯も信号も津波で破壊され、鈍色の闇にすっぽりと覆い尽くされていました。傍らの歩行者や自転車に細心の注意を払いつつ、ゆっくり走行して現地に到着すると、避難所となった小学校体育館の内外では入浴帰りの子供たちや歯磨き最中のお年寄り、大型テレビの前でニュースを見ている一家が夕食後のひとときを過ごしていました。団欒の場に音楽療法という異物を持ち込って臨む私は、そこにいる全ての人に「これから活動を開始するが大丈夫か」と聞いて回りました。一人でも拒む人がいたら即刻中止するつもりでしたが、首を横に振る人はいませんでした。
遠方から来た保健師による場内アナウンスの後、ぱらぱらと集まった参加者が椅子に座り、活動を開始しました。声量を抑え伴奏のボリュームを絞り、体操とストレッチを行いました。体を動かしましょう、という呼びかけで椅子に座った人以外も体操を始めました。活動しやすい雰囲気になったところで100曲ほど用意した流行歌の題名を読み上げ、リクエストを募ったところ手が上がり、顔を拝見すると震災前に保健センターの健康教室に以前参加していた人でした。顔見知りの存在に勇気づけられ、被災地入りしてからずっと抱えていた緊張感はいっきに氷解しました。一時間後、活動の終了を告げると会場の奥で聞いていた人々からも拍手をもらいました。帰り際、当直の役場職員の男性が
「家族や自宅を津波で失ったばあちゃんたちが、屈託のない笑顔で歌を歌っている姿に涙が出そうになった」
とつぶやいていました。
帰りの車中、人々の歌声と表情を思い起こしながら、避難所に今必要なのは前と変わらない「日常」を感じさせる活動なのかもしれない、と考えるに至りました。
それから毎週土曜日、午前一か所目、午後に知的障がい者施設、夜二か所目の避難所を巡回しましたが、地元の音楽療法士の伝えてきた「移動時は地震速報や津波注意報を聞くためカーラジオをつける」「津波が来た時のために迂回ルートを熟知しておく」「町中を走行する際は粉塵や悪臭を防御するために窓ガラスをあけない」「休憩所、飲食可能な場所、トイレ、携帯電話の通じる範囲などを把握する」など一連の注意点は非常に役立ちました。
避難所訪問の際の、まるで見知らぬ他人の寝室に上がり込んで好き放題ふるまっているかのような後ろめたさはずっと払しょくできませんでした。回数を重ねるごとに音楽療法の来訪を楽しみに待っていたと言ってくださる方、寄せられるリクエスト曲は増え、大人ばかりではなく子供たちの参加も見られるようになりましたが、毎回毎回、予想もしない出来事の繰り返しでした。
週替わりで入れ替わる担当者から「音楽療法なんて話は聞いてない、どこの誰なのか」と詰問されたこと。いつも通り保健師が人々の前に立って音楽療法の説明を含むインフォメーションを行っている最中、小さな姉弟が無邪気に遊んで笑っているのを見咎めた他の大人が「うるさい、静かに聞け!」と一喝し、場の空気が一変したこと。音楽療法の最中に大きな余震が起こり中断、再び元の雰囲気を取り戻すのが困難だったこと。避難所となった公民館に隣接する施設でのイベントでワインの試飲会が開催され、酩酊した大人たちが音楽療法に乱入。腹にすえかねた若者が過激な言葉で一括し追い払ったことなどがありました。
人々の疲れとストレスは避難生活の長期化と共に深刻化し、ほんの小さなきっかけで日常の平穏がかき乱されるようになりました。避難所に「ケアルーム」と名付けられた一角も設けられたのもこの頃です。私が接した人の中には災害ストレス反応や抑うつ状態、PTSDと思わしき人は確認できませんでしたが、笑う、泣く、怒る、おし黙る、などの感情のハンドルにあそびが無い時期でした。
音楽療法開始から数カ月が経過して、町では仮設住宅の建設も進み夏の間に全ての避難所が閉鎖されると聞きました。音楽療法最終回となった真夏のある日、統合されて数少なくなった避難所のひとつに残っていたのは、諸事情により入居先が決まらない人たちばかりでした。いつも通り参加者に選曲をしてもらっていると、一人の女性から唱歌「ふるさと」がリクエストされました。
「大震災の直後、頻繁に慰問団体が来てこの歌を歌っていったけど、当時は聞くだけで辛かった。でも、今なら平気。きっと歌えると思います」
 瓦礫が取り去られ、むき出しになった土台のそちこちに夏草が野放図に生えた光景を見ながら、この地の人々は「津波によってもたらされた辛い体験や悲しい記憶は一刻も早く忘れたい」「しかし以前の美しかったふるさとの記憶は決して失いたくない」という、ふたつの相反した想いを抱くそうです。
この日、ふるさとを歌いたいと言った人の胸中に去来した風景を私は知る術がありません。避難所閉鎖の後、人々はそれぞれ海辺から離れた場所にある仮設住宅や内陸部の公営団地、違う土地への移転により、新たな暮らしへの一歩を踏み出していきました。
・仮設住宅巡回
 避難所巡回の終了後、しばらく被災地で活動するチャンスは訪れませんでした。黙々と通常の病院業務に明け暮れていた九月、三陸へ仕事で行った時に仮設住宅の管理運亭を担当している社会福祉協議会に飛び込み営業?をかけ、支援の必要と思われる場所を斡旋してもらえることになり、再び巡回を開始しました。今度は仮設住宅の巡回です。
社会福祉協議会の管轄下には56か所の仮設住宅団地があり、私はこれまで24か所を巡回して音楽療法を実施しました。ひとくちに仮設住宅と言っても、住民同士が元々同じ集落から移り住んだところと、バラバラの土地から集まったところでは全く様子が違います。
前者は住民同士で結成する自治会も早い時期に立ちあげられたのですが、後者は未だに自治会のめどさえたっていません。仮設に入って数カ月、一度も隣に住んでいる住民の顔を見たことがないという人もいました。音楽療法の開始時間になっても誰一人集まってこない仮設は後者に多く見られました。また、やっと自治会が結成されても、輪に入っていけない住民は静かに集団から距離を置き、やがて自室に閉じこもってしまいがちです。
音楽療法に寄せられる期待のひとつに、そのような人に活動をきっかけとして談話室へ足を運んでもらうきっかけ作りであると思われます。指定される巡回先も、未だ自治会が無く住民同士の交流が見られない場所が主です。
談話室では他のボランティアと一緒になる機会にも恵まれますが、お茶やコーヒーを飲みながら話相手になるサロン活動はいずこでも大変喜ばれています。
傾聴ボランティアと呼ばれる彼らは、さりげなく話を引き出し、心がほぐれた頃合いを見計らって音楽療法へとつなげてくれます。彼らに触発され、私もなるべく活動中に多くの話を引き出せるように試行錯誤を繰り返し、冒頭のように土地にまつわる昔話を(こっそり下調べしつつ)用いています。あちこちで聞きかじった方言にイラストをつけて、スケッチブックを漫談のように提示しながら導入すると、歌唱の際の声量も大きくなることがわかりました。
昔の町について何でもいいから教えてください、とお願いすると、誰もが嬉しそうに口を開きます。私がよそから聞いたばかりのエピソードを知ったかぶりで披露すると「良く知ってるねえ」とか「いやそれは違う」と間髪いれずに話し始めます。そして回を重ねるうち、自ら震災体験を語り出す人が増えてきました。辛い記憶を話している最中に落涙する人もまれにいますが、大半の人は淡々と、気強く語っていました。
「ボランティアの人来るとこの話するの。そして泣かせちゃうの。悪い人だね私」
そう言って豪快に笑った人もいました。
 被災地の状況は刻一刻と変わって行きます。人々の心のありようも様々ですが、遠くからボランティアにやってきた人から「いつまた津波が来るかわからないこんな土地にいるより、ロシアから北方四島返してもらってそっちにみんな移り住めばいいだろう」と暴言を吐かれても(実話です)、彼らのふるさとに対する思いはずっと変わらないでしょう。
避難所時代を含め、震災以来の長く苦しい生活の中、被災者は経済的にも精神的にも追い詰められています。ストレスや生活の変化による変調が脳卒中や心疾患など重篤な症状につながるケースもあり、追い詰められた心理状態から自殺を図る人も少なくありません(岩手県内で昨年6月から今年4月末までに震災関連の自殺者は21人)。せっかく助かった命を自ら絶つような事態を防ぐためには自治体職員や医療関係者、住人同士の見守りが必須であると思われます。
「もう私が住んでいた家は無いのに、でもやっぱりあの家に帰りたいって思う」
 こう語る被災地の人々の上に安息の日が早く訪れますように、という祈りを歌にかえて私はこれからも歌を届けに海辺の町へ通い続けます。
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