この記事は、当時学会への報告書として書いたものです。
多少細部を変えつつ、転載しますね。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校
午前10時に到着し、前回と同じ市役所の職員が対応してくださいました。既に顔を記憶していただいたようで、すんなりと避難所である体育館へ入ることができました。
屋内は人が少なく、前回より暗い雰囲気でした。私はアシスタントに「担当の保健師さんに音楽療法開始の場内アナウンスをお願いしなければならないので探してきてほしい」と言いましたが、戻ってきた彼女の口から「保健師さんはいましたが、私は何も話を聞いていないので貴方達には協力できません、ときっぱり断られました」と聞きました。
私がもう一度、その保健師さんにお願いしようと近づきましたが、避難民の方のバイタルを計測している最中だったので話しかけることは出来ませんでした。
その時、遠くで椅子に座りながらこちらに向かって手招きをしている男性と目が合い、近づいていったところ、「ここの担当はこれから宮古市の保健センターに所属する保健師になるので、次回からそちらに話を通して欲
しい。今日はもう約束済なので仕方ないが、次回からは午前ではなくもっと別の時間帯に行ってもらいたい」と言われました。男性自身も被災し、この場所で避難生活を送っている方でした。話ぶりから、避難民の代表をなさっているようです。
「音楽の時間は必要なので、これからも継続してほしい。土曜の昼間は少ない人数なので、せっかく遠方から来てもらっているのに申し訳ない気持ちだ。なるべく人が多い時間帯に来て欲しい」という主旨のお話でした。
会場に戻り「これから音楽の時間が始まるので、大きな音量が響きます。もし不快に感じるようだったら、すぐにお知らせください」と山崎が皆さんに知らせて回りました。幸い、拒絶する方はいなかったので活動を開始しました。
目の前に用意した座席は空のまま、前回にもまして重苦しい空気の中での導入だったので、まず柔らかい音色で映画音楽を数曲演奏しました。それを聞いた50代の男性が寄ってきて、椅子にどっかりと腰を掛け「今度はフランス映画の主題歌を演奏してほしい」と言いました。男性のリクエストに応えて演奏していると、今度は先週も参加した高齢の女性二人もやってきたので、映画音楽の中断について男性に断りを入れてから、昭和初期から戦後の流行歌を弾き歌いしました。男性もこの頃の流行歌を聞くのはまんざら嫌いではない、と言いました。
我々の位置から右手にある居住空間でじっと座りながら音楽を聞いていた方から「演歌が聞きたい」と言われ、比較的新しいものを演奏しました。リクエストされた楽曲の中には歌詞が用意していない曲もあり、次回必ず持ってきますと約束を交わし、かわりに別の曲を演奏しました。
前回いた子供たちは一人も見当たりませんが、奥の空間で数名の男児がカードゲームで遊んでいるのが見えました。彼らは全く音楽に関心を示しません。奥で血圧を測っている保健師らも、音楽など全く耳に入っていない様子でした。
終了時間間際に歌った「お富さん」で、私が最後に与三郎の決め台詞を言うと、演歌をリクエストした方の身内の男性から「いよ!」という掛け声をかけられました。
体育館から荷物を搬出する際、全労災ボランティアと書いたゼッケンの男性から「どこの所属ですか、ボランティアの手続きはとってますか」と聞かれ、たまたま職場の名札を首から下げていたのでそれを見せると「ああ、病院職員の方ですね。わかりました」と納得してもらいました。帰り際、役場の方にご挨拶をしたら、隣にいた女性がこちらを一瞥してから役場の方に「ここ最近、色んなボランティア希望の人が来ているみたいで、応対大変でしょうね。御苦労さま」と言っていました。
(この頃の被災地は火事場なんとか、みたいな不逞の輩が結構いたらしくて、この用心っぷりは当然と思いました)
前回の訪問時、避難所で我々の応対をした保健師は、遠く神奈川県からボランティアでやって来ている方でした。
「あと数日で私は岩手を離れるので、来週は別の人間がここを担当します。音楽療法が次回は土曜日の10時から、と申し送りしますが、何かトラブルがあったら保健師の間で引き継ぎしている携帯電話の番号を教えますのでかけて下さい」と渡された番号に、昼食後かけてみました。
すると、先ほどアシスタントに「協力はできない」と告げたと思われる保健師さんにつながりました。前述の経緯を説明し、今後は誰に、どのような手続きをとれば良いのかを質問したところ「避難所の皆さんの要望により、これからは保健師ではなく避難民の代表者がそういったこと(音楽療法の訪問など)を取り仕切ることになったと聞いた。我々もあと数日でここを離れるので、これからは代表者の方と直接交渉してほしい」との答えでした。
宮古市での音楽療法を最初に段取りした宮古市在住の音楽療法士の佐々木さんにメールで早速これらの経緯を伝えたところ、すぐに「これから宮古市役所に一緒に行き、保健センターで話の通じる保健師さんにお願いしてみましょう」と返信がありました。昼食後、午後1時に佐々木さんと待ち合わせて保健センターのある宮古市中央公民館へ行き、私も何度か仕事をご一緒したことのある顔なじみの保健師さん数名とお会いすることが出来ました。正直、やっと顔なじみの方とお会いしてほっとしました。
佐々木さんと宮古市保健センターの皆さんとは、長年仕事のパートナーであり、良好な関係を保っているので、今回の件についても親身になっていただくことができました。早速、宮古小学校の避難所で代表をしている男性にコンタクトを取り、間に入って調整を行って下さることになりました。
山田町 14:00-15:00 はまなす学園
山田町にある知的障がい者支援施設(入所型)はまなす学園は、併設された老人ホームもろとも津波の被害に遭い、建物が全壊しました。人的被害は無かったものの、行き場を失った施設の皆さんは同市内にある数年前に廃業した観光ホテルの建物へと避難し、現在も入所者と職員が電気も水道も無い生活を強いられています。慣れない環境での生活が一カ月超過して、全員の疲労がピークに達しているということでした。知り合いの福祉コーディネーターから「もし山田町の避難所を訪問する際に空き時間があったら、この施設でも実施してもらえないだろうか」と相談を受けたので、夜の豊間根中学校までの空き時間にセッションを行う約束をしました。
宮古小学校から山田町の町中にある小高い丘の上のホテルまで、自動車で約30分。約束の午後3時開始より30分早く現地に到着し、出迎えてくれた男性職員に中へと案内されました。ライフラインが復旧していない建物の中は真っ暗で、元のホテルでは宴会場であったであろう部屋に通されました。そこにはかなり幅広い年齢層の入所者が20~30名ほど、他に職員が10名ほどぎゅうぎゅう詰めになっていました。
宴会用の大きな円卓にキーボードを配置し、自家発電から電気をもらってCMやアニメの楽曲をいくつか弾きながらセッションを開始しました。事前に利用者に関する情報は入手できなかったので、音に対する一人ひとりの反応を確かめながら、徐々に周囲への働きかけを広げました。
セッション終了後は、すぐにおやつ(ぜんざい)の時間だったので急いで搬出し、会場を後にしました。たまたま屋外のトイレへ利用者を連れてきた職員の女性と話をしましたが、この方は常勤ではなく震災後に北海道からボランティアとして来たそうです。音楽によって利用者の皆さんがとても喜んでいた、との感想をいただきました。
山田町 19:00-20:00 豊間根中学校格技館
18時30分に到着して、前回と同じ体育館へ入ろうとしたところ、入口で前回の参加者から「こないだの先生ですね、こんばんわ。今日の会場はここではないですよ」と声をかけられました。会場の変更について、担当の山田町保健センター保健師から何も連絡が無かったので、その方に教わった通りに敷地内にある武道場へと移動しました。夕食が終わったばかりで片付けの真っ最中の会場には、役場の職員も保健師も見当たらないので、近くの方に声をかけて代表の方に取り付いてもらいました。この女性も前回、別の会場で音楽療法に参加していた方で、話はすぐに通じました。
「会場はどのように設営したら良いでしょうか」と聞かれたので「こちらの皆さんの邪魔にならないような、隅っこでも構いません。どこでもいいです」と答えると「いえ、きちんと先生が指示なさってください。私どもでは決めかねます」ときっぱり言われました。
開始時間まであと少し、というところで、先週もお世話になった保健師さんと役場の職員さんが、前回も参加して下さった2名の方を連れてきました。保健師さんが生活上の様々なインフォメーション(整体師のボランティアについて、青森からの炊き出しについて、等など)と共に、これから音楽療法が始まると全員に向かって案内している最中、奥にいる年配の女性が子供のいる家族に向かって「さっきからうるさくて聞こえない、黙って!」と大声で怒鳴りました。それまで母親と笑顔で話していた子供たちは、すっかり萎縮して黙り込んでしまいました。
午前と同様に重苦しい空気のまま保健師からの紹介を受けて、まずは避難所で出来る簡単なストレッチを行いました。意図的に導入には一切音楽をいれませんでした。ゆっくりとした呼吸を心がけるよう前置きをしてから、四肢の伸ばし方、肩こりの防止法、関節のまわし方を逐一説明しました。会場にいたほぼ全員が真剣にストレッチを行っていました。少々回りくどい導入でしたが、この時のこの会場とっては必要な段階だったと思われます。その後、用意した歌詞を提示して、昭和の流行歌を中心とした歌唱を行いました。いざ歌が始まると、雰囲気も変わり人々の表情にも笑顔が戻ってきました。
30分ほど経過した頃、突然大きな余震(震度3)が来て会場全体が再び緊迫しました。この緊迫状態から参加されていた皆さんの気持ちを音楽に戻すのは、相当に困難でした。
数年前から介護予防教室などの仕事で山田町をたびたび訪問していましたが、その仕事でご一緒した人々が避難所でのセッションで「明るく楽しい歌の時間」という雰囲気を牽引してくれました。一生懸命に手拍子をして、大きな声で歌を歌ってもらい、それにつられて周囲の方も徐々に声が出てきました。先ほど、女性から怒鳴られた子供たちも、知っている歌にも知らない歌にも元気に手拍子をしていて、会場の雰囲気になじもうと懸命になっている様子がうかがえました。
終了後、次回また訪問する旨を伝え、用意してきた「リクエストカード」を保健師に頼んで配布しましたが、大勢の方が紙を受け取っていました。
前回、宮古小学校で応対をしてくれた保健師からうまく新しい担当者へ申し送りが伝わらなかったことで、音楽療法を定期的に訪問するためには依頼主を一本に絞って、決まった担当者と密に連絡を取り合わなければ、いざ当日現場に入ってから「聞いていない」「協力できない」とそっぽを向かれ、最悪「押しつけがましいボランティア」と言われかねない危険性を痛烈に感じました。
しかし、誰がその現場を統括しているのかは、状況が日ごとに変化している場合もあるので、見極めが困難です。幸い、今回は地元と密接なつながりのある佐々木さんの取り計らいで、何とか宮古市保健センターと連携がとれるようになりましたが、よその土地から飛び込みで入った場合はここまでに至るのは至難でありましょう。近畿からのアドバイスにもあった通り、避難所で音楽療法を実現し運営していく為のキーパーソンは地元の保健師です。音楽療法を取り入れてもらうために、各地の保健センターに出向いて、働きかけを行うのが一番の近道であると思われます。
また、1週間経過して再び訪問した避難所は、前回よりも住民の皆さんの「不機嫌さ」が際立っていました。行動や言動からは、自動車のハンドルでいうところの「あそび」がかなり消失して、こちらが驚くほどにダイレクトな感情を他者へとぶつけてきます。言葉づかいも以前よりかなり直截的だと感じました。
命の危機を脱して、素直に感情を表出できるようになったのか?
長い避難生活での疲れ、焦り、いらだちで他者に接する際の余裕が無くなってきたのか?
憶測で判断するべきことではありませんが、先の見えない避難生活が続くにつれ、住民の皆さんの緊迫した心理状態はさらに深刻化していきそうな予感がします。
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