今日9月11日で、東日本大震災発生から1年半が経過しました。
震災当日、私はサイコドラマの増野肇先生から声をかけていただいた仕事で上京しており、友人と一緒に吉祥寺のオープンカフェでお茶を飲んでいました。大きく揺れたと思ったら、母と通話中だった携帯電話がいきなり不通になったので驚きました。
それから知人の家でニュース映像を見て、この地震が未曾有の大災害であることを知り、沿岸に住む親戚知人の安否が心配になりましたが、連絡の取りようが無くただじっとテレビ画面を見つめるだけの日々が続きました。
(岩手に帰る交通手段も無く、帰宅できたのは1週間後でした)
半月後、私は仕事先の大船渡市盛保育園で卒業式にお招きいただき、初めて実際に被災地となった沿岸の惨状を目の当たりにしました。ガソリンが手に入りにくいこの時期、運良く満タン近く残っていたガソリンを頼りに大船渡から三陸の道を北上し、釜石~山田~宮古と移動。何度も音楽療法で訪れた仕事先の建物が無残に壊れているのを見て、胸が痛みました。
愛車レガシーのタイヤは、この時に瓦礫の中を走行したため、一発でタイヤが駄目になりました。
私に被災地で音楽療法をするチャンスが到来したのは4月に入ってから。
宮古市在住の音楽療法士・佐々木良恵さんから連絡をいただき
「私は既に保健師さんから避難所で音楽療法をやってくれ、と依頼を受けて活動を開始していますが、一人では回りきれないので誰か内陸の方が助っ人に来て欲しいんです」
と言われ、真っ先に私が立候補しました。
その最初の仕事を書きます。
山田町 19:00-20:00 豊間根中学校体育館
会場となった中学校に到着すると、体育館の入り口でラーメンの炊き出しをしている若者から
「食べていきませんか」
と声をかけられました。とても美味しそうだったけど、仕事前だったのでご遠慮申し上げました。
体育館の中は夕食後、まったりと寛ぐ多くの人がいました。
ぐったりと横になる人がいる空間で、これから大きな音でキーボードを弾き、大きな声で歌を歌うのか‥と、気持ちが揺らぎました。まるで他人の家の寝室に上がり込んでいるような感覚です。
役場職員の男性たちが、パイプ椅子を真ん中に並べて、設営を手伝ってくれました。
時間になり、躊躇はありましたが自分の役割を果たそうと思い、音楽療法を開始。
(携帯で撮影したので画像が粗いです)
すると、以前山田町の保健センターで行った音楽療法に参加してくださった、北浜地区(被害が大きかった場所)の女性が声をかけてくださり、無事がわかって私も安堵しました。と同時に、音楽療法経験者である彼女が楽しそうに歌っている様子から、それまでどんよりと曇りがちだった場の雰囲気を明るく牽引してくれました。
活動を終え、荷物を一緒に車まで運んでくれた役場職員の方が
「家も家族も流されたばあちゃんたちが、あんなに屈託なく歌って笑っているところ見て、俺泣きそうになりましたよ」
と言ってました。
その晩は宮古市内のホテル古窯に泊まりました。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校体育館
入口で職員の方と少々押し問答があった後、事情を知っている保健師さん(遠隔地から派遣された方)に取り次いでもらい、ようやく中へ入ると、前日の豊間根とはうって変わって、段ボールの仕切りでそれぞれのスペースが確保された形態の避難所でした。
活動準備をしている最中、何事かと思って近寄って来た小学生の女の子に
「なにするの」
と聞かれ
「みんなで歌を歌うんだよ」
と説明すると
「わたし、音楽嫌い。聞きたくない、やめて」
と強い口調で言われました。でも仕事だからね、となだめようとした途端
「嫌だって言ってるでしょ!!」
と、キーボードのアダプターをコンセントから抜き、床に投げ捨ててそのままどこかへ去って行ってしまいました。
気を取り直して活動を始めましたが、会場内の人は誰一人、用意した席には座りません。
目の前に誰もいない状態で、持って来た歌詞を提示しながら何曲も何曲も、弾き歌い続けました。
佐々木良恵さんが二人の女性を連れてきてくださったのですが、そのお二人もすぐにどこかへ行ってしまいました。
こうして誰も参加者がいないまま時間になり、荷物を片付け撤収。
体育館の出口に差し掛かったあたりで、会場からパラパラと拍手が聴こえてきました。
そして一人の女性が近寄ってきて
「いつも膏薬を足に貼る時に痛くて苦しいんだけど、今日は歌を聞きながらやったから痛くなかった。ありがとう」
と言ってくださいました。
この日から8月上旬までの間、避難所巡回の日々が始まったのでした。
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