過去の記録から転載します。
6月13日(土曜日)、東日本大震災および津波の被災地である岩手県宮古市と山田町を訪問し、避難所で生活する方たちへ音楽療法を実施してきました。研修生二人も同行しました。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校
いつもの場所にはゲームをしている小学生男児三名と、高齢の女性が座っていました。Aさんは配置換えがあり、向かって右側の真ん中に休んでいました。迎えに行くと「待ってましたよ、これだけが楽しみで」と言って起き上がりました。それを見た小学生たちは「音楽療法はじまるの?」と言いながら気を使って場所を移動しました。
Aさんは最初に「太陽がいっぱい」をリクエストしてきたので、持っていたパソコンでアランドロンの動画を見せながら、曲を弾きました。先週も同様に提示したことを、Aさんはおぼえていない様子でした。その後、研修生とオノヨーコや歴史上の人物についての話をして盛り上がっていました。
長机に座っていた高齢の女性にはもう一人の研修生がリクエストの聞き取りを行いました。「夜霧よ今夜もありがとう」「兄弟仁義」「兄弟船」「アンコ椿は恋の花」「二輪草」「星影のワルツ」などが挙げられて、全て弾き歌いしました。この女性Eさんは去年、病気で母親を亡くし、ご自身も癌をわずらって闘病中に津波にあったということです。Eさんは一曲が終わるごとに拍手をしてくださいました。
隣にいた女性(何度か参加して赤い靴のタンゴをリクエストした方)Fさんは「雪椿」「女の意地」「君影草」「夫婦橋」をリクエストして、曲の合間に出身地近くの大きな町に奈良光枝がリサイタルに来て見に行った想い出を話しました。
今回、初めて手作りのケーキを焼いてきたので、玄関にいた市職員の女性(研修生の高校の先輩)に事情を話し、昼食時に出す許可をもらいました。避難所の代表の方(交代して比較的若い男性)にも許可をもらい、包丁を避難されている方(小学生男児の御家族)にお借りしました。音楽療法に参加してくれている方からは「美味しい」と言っていただけましたが、他の方に「どうぞ」とすすめても返事がありませんでした。
いつも参加していたBさんが先週から見当たらなかったので、市職員に聞いてみたところ、仮設住宅に入居したとのことでした。体育館を仕切っていた段ボールが大量に折りたたまれていて、避難所全体の人数もだいぶ減ってきていました。
玄関での受付や、食事の運搬など雑事を担当している自治労の方に話を聞くと、この避難所は近所の弁当屋から仕出しをするようになっているとのことでした。他の避難所では調理室を使って自炊している様子もありますが、自治体や場所によって対応が異なるのかもしれません。
山田町 14:00-15:00 はまなす学園
約束の時間より少々早めに到着し、入室すると中ではおやつの時間でした。一人4枚ほどのラスクと、コップ一杯のお茶で和やかな休憩時間を過ごしていました。
活動の導入は「北国の春」、次に先週も行った「いとまき」を交えた手遊びの踊りと、CMソング「この木なんの木」に振り付けをつけたダンスを踊りました。室内には入所者が21名、職員が4名いて、この大人数がそろって集中できる活動はダンスが一番なのだと感じました。
次に楽器を配布し、「おもちゃのチャチャチャ」を演奏した後に急きょ「はまなすぽぽぽ」という曲を作って「何なにが好きな人は手をあげて」と繰り返しながら、歌いました。こういったコール&レスポンスの形で歌をすすめるのも皆さん好きなようです。
先週、ギターを弾けると言っていた男性に使ってもらおうと持参したギターを渡したところ、彼は自室から自分のギターを持ってきて、「明日がある」を弾きはじめました。この男性はその後も、キーボードの演奏に合わせてギターを弾きました。キーが合わないところは、こちらが合わせました。
最後にリクエストをとり、「ひと夏の経験」「ちょうちょ」「およげ!たいやきくん」「兄弟船」「ドラえもん」「わたしの青い鳥」を歌いました。曲の合間に、歌集を作ったほうが良いか?と聞いたところ、多くの人から「作ってほしい」との要望が出たので、いずれはまなす学園専用の歌集を作成することにしました。最後に「ドレミのうた」を歌い、終了しました。
屋外に出ると、一週間のボランティア活動を終えた青森県の職員さんたちが帰るところでした。入所者の多くが手を振って別れを惜しんでいました。
山田町 19:00-20:00 山田町大沢ふるさとセンター
二階建ての公民館のような建物の一階奥に入り、座敷のような広い部屋にキーボードを設置しようとしましたが、長机のようなものが一切見当たらなかったので、玄関脇にあったパンの箱をお借りして、台にしました。対象者は高齢者が8名(男性1名は途中退室)と職員2名。開始前に昭和20年代、30年代の流行歌を弾きながら「この年代の歌を主に歌いますが大丈夫ですか」と聞きました。「リンゴの唄」「勘太郎月夜唄」「満州娘」から導入し、いつも通りストレッチや回文、あてふり、寸劇などをまじえて「お富さん」「旅の夜風」「青い山脈」「憧れのハワイ航路」「お座敷小唄」などを歌いました。
開始前から、我々の姿を見かけた人が調理室で「ほら、音楽の人来たみたいだよ」と声をあげていたように、音楽療法への期待があったようです。参加した皆さんも、非常に表情良く、また反応も良く、全ての活動において楽しんでいる様子でした。同席した職員二名は活動中は全く声を発しませんでしたが、参加者に「古い唄ばかりだったけどわかった?」と聞かれて「一曲くらいなら」と答えていました。
この避難所は他の場所と違い、居室が複数にわかれていて、今回お邪魔した部屋はそのうちのひとつでした。他の部屋ではもう少し若い人たちが車座になって食事をしていたりと、別に生活をしている状況がみてとれました。
山田町の街中にある公園に津波で流された商店主が集まり、仮設テントでよりあい商店街をしているとニュースで知り、様子を見に行きました。本屋、花屋、写真屋、保険代理店、自転車屋、それにお菓子屋が入っていました。本を二冊買い、公園でしばらく佇んでいると小学生男児の集団がやってきて「何かちょうだい」と言ってきました。車にちょうどバルーンをつんでいたので、プードルなどを作って差し出したら、子供たちがそれをもぎとって地面にふみつけて割って遊び始めました。被災地の子供はストレスがたまっているのかな?と思った光景でした。
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