雑誌「ソトコト」に掲載していただきました

某日、ソーシャル&エコマガジン「ソトコト」のライターUさんからFaceBookを通じて連絡をいただき、私が被災地で継続して行っている音楽療法の支援活動について取材したいとのオファーをいただきました。わー、すごい。
いくつか質問事項を寄せられて、それについて文章でお答えしました。誌面では字数に限りがあるのですが、私が回答したのはかなりの分量があり、どうなるのかな?と思いましたが、そこはさすがプロ!簡潔に、短くて小さいコーナーにすっきりとまとまって掲載されてました。
表紙はこれです。
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送ってくださって、ありがとうございます。
記事をそのままここに掲載するのは駄目なので、その前段階である質問と回答をそのままここに掲載いたしますね。
岩手県在住の音楽療法士、智田邦徳(ちだくにのり)です。この度は取材していただいて大変光栄です。PDFもありがとうございました。
限られた紙面の中で私から皆さんへ伝えられる文字数はわずかだと思いますが、Uさんがコンパクトにまとめてくださるという前提で、思いついたことをそのまま書き連ねていきたいと思います。お手数ですが、どうぞ削り落してエッセンスを凝縮していただければ幸いです。よろしくお願いします。
1)仮設住宅訪問のボランティア活動を始めたキッカケ、これまでの経緯を教えてください。
3月11日の震災当日、私は出張のため東京にいて、知人と吉祥寺のスターバックスでお茶を飲んでいました。
背後の百貨店が大きく揺らぎ、そこにいた全ての人々と同様に携帯のサイトでニュースを見ました。東北で津波が来る、と知って激しく動揺しました。
交通機関が完全に麻痺して岩手に帰れなくなった私に、知人が厚意で1週間も寝床を提供してくれましたが、その間ずっと連絡が取れず悶々としながら三陸の友人の安否を想いました。
刻々と明らかになって行く現地の惨状をテレビで観ながら、私は今まで20余年音楽療法士として関わってきた人々に何か出来ないかと考え、時期が来たら支援に携わろうと決意。
待機期間中は震災トラウマの資料や災害ボランティアの手引きなどで勉強して準備を整え、1か月ほどたってから機会を得てすぐに現地に乗り込みました。
2011年4月16日から岩手県宮古市および山田町の避難所を巡回開始しました。
どちらも地元に在住する音楽療法士の女性からの依頼で、ご自身の被災しながら保健師と一緒にメンタルケアを直後から始めた方です。
一人ではまわりきれない、という理由でした。彼女の手がふさがっている日程は週末だったので、私は土曜日に行くことにしました。
宮古市は町中の宮古小学校体育館の一か所を毎週訪れましたが、山田町は保健師の意向で週替わり、別々の場所を巡回する方式でした。
毎週土曜日、午前は宮古小学校。夜は山田町のあちこちを回る生活は8月上旬の避難所閉鎖まで続きました。
それから数カ月して仮設住宅が建ち始めると、前とは別のルートで音楽療法ボランティアを申し込む必要があり、地元社会福祉協議会と連携することにしました。
現在、ほぼ毎週の土曜日、午前10:30-11:30、午後13:30-14:30は宮古市内の仮設住宅巡回。
その後は隔週で宮古市の高齢者デイサービスセンターに行くか、ちょっと離れた大槌町仮設に行くスケジュールです。
2)仮設住宅で行っている活動、智田さんの「音楽療法」の内容を教えてください。
3)被災者にとって「音楽」「うた」はどのような効果があるとお考えでしょうか。
(これはまとめてお答えします)
時期によって活動目的と内容は変えましたが、基本的な方針としては「被災地の音楽療法」という特別なことはせず、いつも通りの音楽療法をそのまま持ち込もう、ということで行いました。
震災直後は身体運動で導入して、徐々に歌へとつなげました。嚥下障害を防ぐ口腔のリハビリや、エコノミー症候群を防ぐ体操、ストレッチなどです。
集団生活の中で、自分の心の不調を訴える状況にはなく、どんなに具合が悪くても我慢してしまう人が多かったのですが、身体の調子はどうですか?というと不調を訴えやすいという気持ちが皆さんにあったからです。
選曲については「海」や「故郷」という連想させる歌は避けたほうがいいか?と危惧しましたが、意外とあっけらかんと海の歌のリクエストが出ました。
しかし「ふるさと」という童謡は、数カ月たってやっと「歌えるようになった」と言う人が多かったです。
歌って流す涙は悪い涙ではないのですが、震災の記憶を意図的に刺激するのはなるべく避けました。
仮設巡回の時期に入ってからは、とにかく「歌いたい歌」を参加者から募り、それをもとにリストを作成、活動時に毎回配布してそれをもとに活動を進めました。
「あてふり」という技法があるのですが、歌詞にあわせて面白おかしく(時にはアダルトに)体操するのですが、これがとても人気です。
仮設で暮らす人々からは私がこれまで臨床現場で学んだ懐メロ以外に、たくさんの知られざる名曲を教わることが出来ました。
そしてその一曲一曲にこめられた、彼らの思い出、エピソードを聞くことが出来ました。震災前の思い出を口に出すことは彼らにとって有意義なセラピーになったと思われます。
もうひとつ大事なことは、津波前のコミュニティから断絶された彼らの、社会性の再獲得です。
仮設団地内の自治会が結成された時期はバラバラで、未だにそれがない場所もあります。2年近くたって、隣に誰が住んでいるかさえ知らない人もいました。
今、災害復興住宅の建設や遠隔地への転居が相次ぎ、仮設団地もじょじょに空室が増えてきました。
阪神淡路大震災の長期的なリサーチでも、独居老人の見守りや孤独死防止、自殺防止が重要な課題として挙げられていました。
三陸はまさに、これからその大事な時期にさしかかっています。
「歌を歌う」活動は大半の住民にとっては敷居が低く、想像がつきやすい活動です。そこで自分に何が起こるかわかりやすいのがメリットです。
まず集まり、そしてお互いの顔を知る。歌の合間におしゃべりをして、相手の状況を知る。
こういった大事なプロセスを、歌というふんわりとした幕に包みこんで見守りをさりげなく続けて行けるのが、歌の良いところです。音楽療法の素晴らしいところだと思います。
4)これまでのご活動をとおして、印象に残っている出来事、被災者の方の様子や言葉などがあれば教えてください。
最も印象に残っているのは、2011年4月、最初に避難所を訪問した時のことです。
体育館でキーボードを用意している最中に、小学校女児が一人かけよってきました。
「何しているの」
と聞かれたので
「これからここで歌を歌うんだよ」
と説明したところ
「私、音楽嫌いなの。やめて」
と言われました。
「でもね、仕事で来ているんだから」
と説得を試みたその途端、女児が無言でキーボードのアダプターを抜き取り、渾身の力で床に叩きつけました。そしてにくにくしげな表情を向けた後に、どこかへ立ち去りました。
私にとっても生まれて初めての被災地での音楽療法でしたので、何が起こるかわからないからと覚悟をしていたつもりでしたが、物凄い勢いで出鼻をくじかれた形です。
この他は、山田町の避難所の隣にある保育園で「復興まつり」と称したイベントが開催されていて、そこで地場産ワインの試飲会がありました。
当時、避難所は大切なルールとしてお酒の持ち込み禁止、飲酒禁止、やぶった場合は即退去というものがありました。
しかし、漁師だった人の多いこの避難所では、数名の男性が禁を破り、イベントでしこたま飲酒して酩酊した挙句、音楽療法の時間に大騒ぎをして好き放題暴れ始めました。
それを見た被災者の若い男性がびっくりするほど激昂して
「殺すぞ!出ていけ!」
と言い、酩酊した男性たちを追いだしたこともありました。その時のバツの悪そうな彼らの顔が忘れられません。
避難生活が長くなるにつれ、同じ空間で寝食を共にして親密の度合いが増す場合と、ストレスがたまり険悪な雰囲気になる場合がありました。
笑う、怒る、泣く、キレるといった感情が、まるであそびのない自動車ハンドルのようにめまぐるしくうごいていた時期でした。
5)仮設住宅に暮らす皆さんの現状はどのようなものでしょうか? 活動を続けるなかで何か移り変わりはあったでしょうか?(智田さんの感じる印象で構いません!)
前述の通り、そろそろ仮設から新築の家や遠い身内の家に引っ越したり、災害復興住宅に転居する人が出てきました。
しかしめどのたっていない人は、そうやって出ていく人の背中を見ながら、先の見えない不安の中まだまだ生活していかなければいけません。
日中、談話室(もしくは集会所)にやってきて、いつもの仲間とお茶を飲みながら、手芸をしながら、カラオケを歌いながら日々をやり過ごす人の大半はお年寄りです。
遠くから来る支援者が減っている今こそ、彼らに生きがいを提案する活動が必要だと思います。
「よその仮設では、どんなことしてんだかね」
と私も良く聞かれるので、どこどこでは機織りのボランティアが北海道から来ていたよ。大阪から手芸の指導者が来ていたよ、と教えます。
すると
「うちにもそういう人来てくれるといいんだけど、どこにどう頼めばいいかわからんもんね」
と言われます。見守りの支援員、巡回職員はいますが、そういったキメの細かいニーズを把握してあちこちとつなげるマンパワーは慢性的に不足しています。
そうこうしているうちに月日はたち、生活不活発病と呼ばれる「何もしないから何もできなくなっていく」老化現象が防げなくなっているのです。
私は最近、活動中に記録目的で撮影したデジカメ画像をプリントアウトして、個人個人の把握をしようと
「前の時に参加したこの人、名前わかりますか」
と参加者に聞いてから活動を開始しています。すると、ファイルにある他の仮設の画像を見て
「あ、この人は近所にいた人だ!無事だったんだね」
と安心する人がたくさん出てきました。
(個人情報保護の観点から言えばあまり良くないことかもしれませんが)
被災地とひとくくりにするように、被災者とひとくくりにされがちな皆さんですが、顔が一人一人見えてくるとたくさんの課題が浮かび上がります。
また、逆に何度も何度も訪問しているうちに
「歌の先生だ」
と皆さんから認識されはじめたことで、徐々に皆さんとつっこんだ話も出来るようになり、一緒にこれからどうしたらよいかを考える、話し合う時間が歌う時間より増えてきました。
私が今一番思っていることは、仮設住宅は仮の住まいですが、仮設で過ごす日々は「仮の日々」ではなく、彼らにとって大事な、かけがえのない一日なのだということ。
大切なその一日を幸せに過ごしてもらうための活動を、これからもずっと続けていけたらと思います。
6)智田さんの今後の予定を教えてください。
2年近く全くの自費で活動してきましたが、例えば移動中に事故が起こったり(一度だけありました‥追突事故)私の活動中に誰かが急変したりといったことを考えると、長期的なボランティア活動は個人で行うには限界があります。
そこで2013年2月6日に「一般社団法人東北音楽療法推進プロジェクト」を立ち上げ、団体として動くことにしました。
小さな団体ですが、これからあちこちに働きかけて、出来ることを増やし、トラブルがあっても大丈夫な体制でのぞんでいきます。
音楽ばかりではなく、様々な方面のクリエーター、アーティストに
「現地に足を運ばなくても出来る支援活動」
を提案し、発信していきたいと思っています。
7)ソトコト読者に伝えたいこと、知ってほしいことがあれば教えてください。
「もう全国の人は私たちのことを忘れてしまったのかしら」
という心配が、被災地の皆さんにとって一番辛いことです。
お金や物資や具体的な支援も大事ですが
「忘れてないよ」
「今も思ってますよ」
という気持ちを、どんな形でもいいので現地に届けていただけると有難いです。
そして被災地に暮らす我々も、そうやって思って下さっている皆さんへの感謝を忘れずに生きていきたいと思います。
‥以上の文章がどうきれいにまとまって掲載されたかは、皆さん是非雑誌を手にとってご確認下さい。巻末の小さいコーナーに凝縮されたエッセンスを読んでいただけると、非常に嬉しいです。
Uさん、本当にありがとうございました。

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