9月 25

避難所巡回 四回目 2011/5/7

過去に書いた報告書を元に記事を書きます。
5月7日(土曜日)、東日本大震災および津波の被災地である岩手県山田町を訪問し、避難所で生活する方たちへ音楽療法を実施してきました。同行者は二名です。
これまで午前中に訪問していた宮古市の宮古小学校避難所からは、インフルエンザ発生のため中止要請の連絡が数日前に入り、訪問はしませんでした。午後のはまなす学園、山田町の避難所(船越防災センター)の二か所を訪問しましたので、ご報告いたします。
山田町 14:00-15:00 はまなす学園
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建物に入った途端、「音楽の人が来たよ、集まって」と利用者を誘導する職員の声が聞こえてきました。前回までは部屋でぼんやりと過ごしていた利用者がそのまま活動へと流れ込むといった印象でしたが、職員が率先して利用者を誘導し参加させる様子を見て大変嬉しく感じました。その反面、音楽を必要としない、もしくは活動参加の意欲が無い利用者が他の居室へと移動していく光景もありました(前回号泣した男性は不参加でした)。
前回リクエストのあった楽曲の歌唱から開始して、配布した打楽器での合奏などを行いました。職員の方々は、入所者の皆さんの名前を教えてくださったり、大きな声で盛り上げてくださったりと、大変協力的に関わってくださいました。
活動終了後、はまなす学園の施設長から、これまでの音楽活動がとても入所者のために良いので、これからも継続して行って欲しいと言っていただきました。こちらへ訪問するようになった経緯を説明して、避難所を訪問し続ける限りは立ち寄って音楽を提供したい意向を伝えました。
山田町 19:00-20:00 船越防災センター
これまでで最も人数の少ない避難所でしたが、参加なさった方の平均年齢が最も高い場所でもありました。子供や若者は廊下や別室でテレビやパソコンに講じていて不参加でしたが、活動中も自由に部屋を出入りし、また避難民に面会にいらした方の会話が部屋に大きく響いたりと、参加者の集中をうながすための努力が相当必要でした。これまで以上に、導入から歌唱までの雰囲気作りに苦労した気がします。一人、活発に発言される高齢の女性がいらして、彼女を中心に場の雰囲気がまとまってからは、寝そべっていた男性が何曲もリクエストを下さり、外で聞いていた方も扉の向こうで体操していて、徐々にいつも通りのペースで活動を進めることができました。
歌を歌いましょう、と呼びかけて活動を開始する雰囲気ではない避難所では、身体を動かしましょう、関節や筋肉をほぐしましょう、と言って細かく解説を織り交ぜながら少しずつ皆さんの気持ちがこちらへと向くように辛抱強く待つ必要があると感じました。
保健センターの方針なので仕方が無いのですが、終わった時に「また来て下さいね」と拍手をくださる皆さんに対して、しばらく再訪できないことを申し訳なく思いました。
今回訪問した船越地区は、豊間根よりも南に位置しており、コンビニエンスストアや公共のトイレの場所を確認するために、空き時間に南方面まで足を延ばしてみました。津波の被害が無かった場所では飲食店が営業を再開していましたが、大槌町という港町は位置が低く海までの至近距離に位置しているため壊滅状態で、営業しているコンビニエンスストアはわずか一軒のみでした。店内は物資の不足は無いものの、駐車場はひどく混雑しており、ゴミ箱は常に満杯の状態です。飲食店も終了時間が早く(18時前に終わるところが多かったです)スタッフの夕食確保に苦労しました。
船越防災センターでは3泊4日の当直を担当している岩手県職員の男性が、我々の応対をしてくださいました。事務所の床に薄い布団を直に敷いて寝泊まりしていると聞き「大変ですね」と言うと「震災直後は寒い大部屋に寝袋一枚渡されて、暖房も無い夜を過ごした。それに比べたら大丈夫」と言ってました。4日目の午前中に新しい担当と引き継ぎをして、午後に盛岡へ戻る勤務が、部署内では月に一度回ってくる、とのことでした。本来は宮古市に拠点を置いて、一人の人間が一か所の避難所にじっくりと腰を据えて業務を行うべきだが、今のめまぐるしい勤務状況では避難所で担当してくれる人の負担が大きくて気の毒だ、とも言ってました。
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9月 19

避難所巡回 三回目 2011/4/30

この文章も報告として以前書いたものですが、詳細や名称を変えて掲載します。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校
この日は大型連休初日だったせいか、盛岡から宮古へ向かう国道106号線が混雑していて、かなり時間に余裕を持って出発した筈がギリギリの到着になってしまいました。途中の道の駅には家族連れの姿が多くみられ、被災地に近いこの場所でも連休のレジャーを楽しむ余裕が出てきたようです。
避難所となっている体育館の入口で先週からここの代表者となった男性とお会いした際に
「今日は避難所から多くの皆さんが花見に出かけているために、先週よりさらに参加人数が少なくて申し訳無い」
と言われました。人が少なくても特に気にする必要は無い旨を告げ、いつも通りの場所にテーブルを据えて物品を準備しました。すると、先週宮古市保健センターでお会いした保健師さんが、ご自身のお子さんを連れて見学にいらっしゃいました。ご近所にお住まいとのことで、避難されている方とも顔見知りのようでした。お子さんは小学生の男児、女児二人だったので、常備しているアートバルーンセットで好きな形の動物を作って遊んでくださいと渡したところ、遠巻きにそれを見ていた避難所の児童数名がきて参加しはじめました。その中には代表者の男性のお孫さんもいました。
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 所定の場所に戻ると、目の前に用意した椅子には先週も参加した50代の男性(Aさん)、初の参加となる身体障がい(歩行困難)のある60代の男性(Bさん)が座り、曲のリクエストをしてきました。Aさん用に洋楽の楽譜集を持ってきたのですが、目次には英語での曲名で書いているので
「何なにの映画の主題歌」
と言われてから探すのがとても手間取りました。Aさんに
「どういうメロディか、ちょっと歌ってもらえませんか?」
と頼むと、鼻歌でひと節歌ってくれたので、それを頼りに和声をつけて演奏すると
「うん、だいぶ近いね。でも完璧ではないね」
と言われました。Aさんは主にヘンリー・マンシーニの曲が好きだ、とおっしゃいました。他にはどんな曲が良いですか?と聞くと
「井上陽水、吉田拓郎あたりのフォークソングを良く聞いていた」
と答えたので、70年代フォークソングを数曲弾き歌いしたところ、それらの曲が流行していた当時にAさんがどのような暮らしをしていたのか、を訥々と話し始めました。Aさんの想い出話を隣にいたBさんも興味深そうに聞いていました。
Bさんからのリクエストは、Bさんを良く知る保健師さんから伺いました。同期の桜、ラバウル小唄などの戦時歌謡や軍歌がお好みのようだったので、やはりその頃の曲をいくつか弾き歌いしました。Aさんの歌うフォークソングもいくつか知っている様子で、徐々に二人で一緒に歌える歌が増えてきました。
30分ほど経過したところで、もう一人の女性(Cさん)が参加しました。初日は我々の活動を遠巻きに見ていたけど、今日はちょっとだけ参加してみたいと言って椅子に座りました。
「演歌が歌いたい」
というリクエストだったので、先週他の方から寄せられたリクエストに応えるため用意した歌詞を用いて、比較的新しい演歌を数曲、全員で歌いました。不倫をテーマにした歌で、Aさんが
「女というのはこういう性質を持っているもんだよね、私にもおぼえがあるよ」
と言って他の皆さんの笑いを誘っていました。
活動を終えた後のCさんの話では、この避難所も少しずつ「自宅に戻る」「親戚の家に移動する」といった理由で退去する人が増え、そう遠くない将来には他の大きい避難所へ併合する可能性があるとのことでした。Cさん自身も、ご自宅の修復のあかつきにはここを離れると言っていました。同じ避難所に生活している人の間でも、生活の立て直しに向けて動き出した人と、まだ先が見えないままの人の差が、徐々に出はじめる時期なのかもしれません。
はまなす学園までの空き時間に、山田町役場へ行きました。駐車場で偶然、幼児教室での仕事でご一緒した若い保健師さんとお会いすることができ、山田町の各避難所についての状況を伺いました。被災した地域の皆さんは最寄りの避難所で生活していると思い込んでいましたが、多くの人は内陸の温泉旅館や公共の施設へ移動していることや、同じ地域の住民でも別れ別れになっていて役場でも把握しきれていないことなどが分かりました。
役場の敷地内は物資の配給を待つ人々でごった返しておりました。歩いている時に、若い女性から
「音楽の人でしょう?久しぶりだね」
と声をかけられました。十数年前に、たった一度だけ仕事で訪れた作業所の利用者さんでした。配給は午後3時半から、日によって色々なものがもらえる。けれど、最近はとみに品数が減ってきて困る、と訴えていました。我々には
「日を追うごとに補給物資が行きわたり、人々の生活は徐々に上向きになっている」
という勝手な思い込みがあっただけに、この窮状は大変ショッキングなものとしてうつりました。同じ山田町内でも、場所によって避難民の生活状況には大きな格差が生まれているようです。
山田町 14:00-15:00 はまなす学園
震災以来、長く停電状態にあった建物は数日前に電源が復旧して、室内は見違えるほど明るくなっていました。前回と同じ部屋へ向かうと、入所者の皆さんから
「こんにちは」
「今日は何するの」
と声をかけられました。一番奥の席に座る女性に、前回は私たちと一緒にどんなことをしたかおぼえている?と聞いたところ、歌った曲名や活動内容をしっかりと記憶していました。
活動開始時に、部屋にいる全員に向けて
「皆さんと一緒にこうやって音楽活動をするために、毎週この時間に訪問する予定です。参考にしたいので、皆さんの好きな曲を教えて下さい」
と呼びかけると、しばらくしてから数名が挙手をし、それぞれの好きな楽曲を叫びました。その多くはアニメの主題歌と最近の歌謡曲および演歌で、題名を挙げられるたびに次々歌い弾きをしました。こちらの知らない(憶えていない)曲については、午前中と同様に鼻歌でメロディを教えてもらい、伴奏をつけて再現しました。知っている曲が流れると、歌詞を用意していなくとも大きな声で歌う人が大勢いました。
活動中、我々から少し離れた場所に直座りしていた30代の男性が、何度かこちらにものを言いたげな表情を浮かべてるのに気付きました。問いただしたところ
「早く家に戻りたい」
と何度も繰り返しつぶやいていました。入所施設の多くは普段から家族と離れて暮らしている寂しさを抱えているものです、それが今回の津波で施設が全壊してしまい、見知らぬ場所で不便な生活を強いられている彼らの心境は察するに余りあります。この男性は、他の方がリクエストした演歌を聞いて号泣し、傍にいた施設職員が理由を聞いたところ
「祖母を思い出して悲しくなった」
と訴えていました。その後、施設職員のお陰で笑顔が戻っていました。
山田町 19:00-20:00 豊間根生活改善センター
前々回、前回とはまた別の会場を指定されました。この日やっと、担当の山田町保健師さんとお会いすることが出来て、これまでの報告をしながら山田町の事情などの話を聞くことができました。毎回同じ避難所を指定している宮古市と違い、
「せっかく遠くからいらしてもらうのだから、毎週同じ避難所に来てもらうのはもったいない。毎回別の場所を巡回してもらう方針でお願いしたい」
という趣旨だと、この時初めて知りました。
この日の会場は、山田町保健センターが主催する介護予防教室の講師として何度か訪問した公民館でした。入口では近隣にある精神科で作業療法をしているという方から「音楽療法があると聞いて何か手伝えることがあればと思って来てみた」とのお申し出をいただき、会場の皆さんと一緒に声を出して歌って下さい、とお願いをしました。その他に地元の図書館館長という方、遠く和歌山県からボランティアでいらした方などにも活動の最中に同席していただきました。皆さん、音楽療法とはどういうことをするのか?と興味津々の様子でした。
今回もまた、音楽療法の経験がある住民の皆さんが全体の雰囲気を牽引してくださいました。会場の外にいる方に対して「面白いから、一緒においで」と声かけをしてくださったり、活動中にこちらの問いかけに対して大声で応答してくださったり、とても助けられました。同じ1時間という枠の中で、他の避難所より一人ひとりとじっくり時間をかけたやりとりができたことが何より印象的でした。
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9月 15

避難所巡回 二回目 2011/4/23

この記事は、当時学会への報告書として書いたものです。
多少細部を変えつつ、転載しますね。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校
午前10時に到着し、前回と同じ市役所の職員が対応してくださいました。既に顔を記憶していただいたようで、すんなりと避難所である体育館へ入ることができました。
屋内は人が少なく、前回より暗い雰囲気でした。私はアシスタントに「担当の保健師さんに音楽療法開始の場内アナウンスをお願いしなければならないので探してきてほしい」と言いましたが、戻ってきた彼女の口から「保健師さんはいましたが、私は何も話を聞いていないので貴方達には協力できません、ときっぱり断られました」と聞きました。
私がもう一度、その保健師さんにお願いしようと近づきましたが、避難民の方のバイタルを計測している最中だったので話しかけることは出来ませんでした。
その時、遠くで椅子に座りながらこちらに向かって手招きをしている男性と目が合い、近づいていったところ、「ここの担当はこれから宮古市の保健センターに所属する保健師になるので、次回からそちらに話を通して欲
しい。今日はもう約束済なので仕方ないが、次回からは午前ではなくもっと別の時間帯に行ってもらいたい」と言われました。男性自身も被災し、この場所で避難生活を送っている方でした。話ぶりから、避難民の代表をなさっているようです。
「音楽の時間は必要なので、これからも継続してほしい。土曜の昼間は少ない人数なので、せっかく遠方から来てもらっているのに申し訳ない気持ちだ。なるべく人が多い時間帯に来て欲しい」という主旨のお話でした。
会場に戻り「これから音楽の時間が始まるので、大きな音量が響きます。もし不快に感じるようだったら、すぐにお知らせください」と山崎が皆さんに知らせて回りました。幸い、拒絶する方はいなかったので活動を開始しました。
目の前に用意した座席は空のまま、前回にもまして重苦しい空気の中での導入だったので、まず柔らかい音色で映画音楽を数曲演奏しました。それを聞いた50代の男性が寄ってきて、椅子にどっかりと腰を掛け「今度はフランス映画の主題歌を演奏してほしい」と言いました。男性のリクエストに応えて演奏していると、今度は先週も参加した高齢の女性二人もやってきたので、映画音楽の中断について男性に断りを入れてから、昭和初期から戦後の流行歌を弾き歌いしました。男性もこの頃の流行歌を聞くのはまんざら嫌いではない、と言いました。
我々の位置から右手にある居住空間でじっと座りながら音楽を聞いていた方から「演歌が聞きたい」と言われ、比較的新しいものを演奏しました。リクエストされた楽曲の中には歌詞が用意していない曲もあり、次回必ず持ってきますと約束を交わし、かわりに別の曲を演奏しました。
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前回いた子供たちは一人も見当たりませんが、奥の空間で数名の男児がカードゲームで遊んでいるのが見えました。彼らは全く音楽に関心を示しません。奥で血圧を測っている保健師らも、音楽など全く耳に入っていない様子でした。
終了時間間際に歌った「お富さん」で、私が最後に与三郎の決め台詞を言うと、演歌をリクエストした方の身内の男性から「いよ!」という掛け声をかけられました。
体育館から荷物を搬出する際、全労災ボランティアと書いたゼッケンの男性から「どこの所属ですか、ボランティアの手続きはとってますか」と聞かれ、たまたま職場の名札を首から下げていたのでそれを見せると「ああ、病院職員の方ですね。わかりました」と納得してもらいました。帰り際、役場の方にご挨拶をしたら、隣にいた女性がこちらを一瞥してから役場の方に「ここ最近、色んなボランティア希望の人が来ているみたいで、応対大変でしょうね。御苦労さま」と言っていました。
(この頃の被災地は火事場なんとか、みたいな不逞の輩が結構いたらしくて、この用心っぷりは当然と思いました)
前回の訪問時、避難所で我々の応対をした保健師は、遠く神奈川県からボランティアでやって来ている方でした。
「あと数日で私は岩手を離れるので、来週は別の人間がここを担当します。音楽療法が次回は土曜日の10時から、と申し送りしますが、何かトラブルがあったら保健師の間で引き継ぎしている携帯電話の番号を教えますのでかけて下さい」と渡された番号に、昼食後かけてみました。
すると、先ほどアシスタントに「協力はできない」と告げたと思われる保健師さんにつながりました。前述の経緯を説明し、今後は誰に、どのような手続きをとれば良いのかを質問したところ「避難所の皆さんの要望により、これからは保健師ではなく避難民の代表者がそういったこと(音楽療法の訪問など)を取り仕切ることになったと聞いた。我々もあと数日でここを離れるので、これからは代表者の方と直接交渉してほしい」との答えでした。
宮古市での音楽療法を最初に段取りした宮古市在住の音楽療法士の佐々木さんにメールで早速これらの経緯を伝えたところ、すぐに「これから宮古市役所に一緒に行き、保健センターで話の通じる保健師さんにお願いしてみましょう」と返信がありました。昼食後、午後1時に佐々木さんと待ち合わせて保健センターのある宮古市中央公民館へ行き、私も何度か仕事をご一緒したことのある顔なじみの保健師さん数名とお会いすることが出来ました。正直、やっと顔なじみの方とお会いしてほっとしました。
佐々木さんと宮古市保健センターの皆さんとは、長年仕事のパートナーであり、良好な関係を保っているので、今回の件についても親身になっていただくことができました。早速、宮古小学校の避難所で代表をしている男性にコンタクトを取り、間に入って調整を行って下さることになりました。
山田町 14:00-15:00 はまなす学園
 山田町にある知的障がい者支援施設(入所型)はまなす学園は、併設された老人ホームもろとも津波の被害に遭い、建物が全壊しました。人的被害は無かったものの、行き場を失った施設の皆さんは同市内にある数年前に廃業した観光ホテルの建物へと避難し、現在も入所者と職員が電気も水道も無い生活を強いられています。慣れない環境での生活が一カ月超過して、全員の疲労がピークに達しているということでした。知り合いの福祉コーディネーターから「もし山田町の避難所を訪問する際に空き時間があったら、この施設でも実施してもらえないだろうか」と相談を受けたので、夜の豊間根中学校までの空き時間にセッションを行う約束をしました。
宮古小学校から山田町の町中にある小高い丘の上のホテルまで、自動車で約30分。約束の午後3時開始より30分早く現地に到着し、出迎えてくれた男性職員に中へと案内されました。ライフラインが復旧していない建物の中は真っ暗で、元のホテルでは宴会場であったであろう部屋に通されました。そこにはかなり幅広い年齢層の入所者が20~30名ほど、他に職員が10名ほどぎゅうぎゅう詰めになっていました。
宴会用の大きな円卓にキーボードを配置し、自家発電から電気をもらってCMやアニメの楽曲をいくつか弾きながらセッションを開始しました。事前に利用者に関する情報は入手できなかったので、音に対する一人ひとりの反応を確かめながら、徐々に周囲への働きかけを広げました。
セッション終了後は、すぐにおやつ(ぜんざい)の時間だったので急いで搬出し、会場を後にしました。たまたま屋外のトイレへ利用者を連れてきた職員の女性と話をしましたが、この方は常勤ではなく震災後に北海道からボランティアとして来たそうです。音楽によって利用者の皆さんがとても喜んでいた、との感想をいただきました。
山田町 19:00-20:00 豊間根中学校格技館
18時30分に到着して、前回と同じ体育館へ入ろうとしたところ、入口で前回の参加者から「こないだの先生ですね、こんばんわ。今日の会場はここではないですよ」と声をかけられました。会場の変更について、担当の山田町保健センター保健師から何も連絡が無かったので、その方に教わった通りに敷地内にある武道場へと移動しました。夕食が終わったばかりで片付けの真っ最中の会場には、役場の職員も保健師も見当たらないので、近くの方に声をかけて代表の方に取り付いてもらいました。この女性も前回、別の会場で音楽療法に参加していた方で、話はすぐに通じました。
「会場はどのように設営したら良いでしょうか」と聞かれたので「こちらの皆さんの邪魔にならないような、隅っこでも構いません。どこでもいいです」と答えると「いえ、きちんと先生が指示なさってください。私どもでは決めかねます」ときっぱり言われました。
開始時間まであと少し、というところで、先週もお世話になった保健師さんと役場の職員さんが、前回も参加して下さった2名の方を連れてきました。保健師さんが生活上の様々なインフォメーション(整体師のボランティアについて、青森からの炊き出しについて、等など)と共に、これから音楽療法が始まると全員に向かって案内している最中、奥にいる年配の女性が子供のいる家族に向かって「さっきからうるさくて聞こえない、黙って!」と大声で怒鳴りました。それまで母親と笑顔で話していた子供たちは、すっかり萎縮して黙り込んでしまいました。
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午前と同様に重苦しい空気のまま保健師からの紹介を受けて、まずは避難所で出来る簡単なストレッチを行いました。意図的に導入には一切音楽をいれませんでした。ゆっくりとした呼吸を心がけるよう前置きをしてから、四肢の伸ばし方、肩こりの防止法、関節のまわし方を逐一説明しました。会場にいたほぼ全員が真剣にストレッチを行っていました。少々回りくどい導入でしたが、この時のこの会場とっては必要な段階だったと思われます。その後、用意した歌詞を提示して、昭和の流行歌を中心とした歌唱を行いました。いざ歌が始まると、雰囲気も変わり人々の表情にも笑顔が戻ってきました。
 30分ほど経過した頃、突然大きな余震(震度3)が来て会場全体が再び緊迫しました。この緊迫状態から参加されていた皆さんの気持ちを音楽に戻すのは、相当に困難でした。 
数年前から介護予防教室などの仕事で山田町をたびたび訪問していましたが、その仕事でご一緒した人々が避難所でのセッションで「明るく楽しい歌の時間」という雰囲気を牽引してくれました。一生懸命に手拍子をして、大きな声で歌を歌ってもらい、それにつられて周囲の方も徐々に声が出てきました。先ほど、女性から怒鳴られた子供たちも、知っている歌にも知らない歌にも元気に手拍子をしていて、会場の雰囲気になじもうと懸命になっている様子がうかがえました。
 終了後、次回また訪問する旨を伝え、用意してきた「リクエストカード」を保健師に頼んで配布しましたが、大勢の方が紙を受け取っていました。
前回、宮古小学校で応対をしてくれた保健師からうまく新しい担当者へ申し送りが伝わらなかったことで、音楽療法を定期的に訪問するためには依頼主を一本に絞って、決まった担当者と密に連絡を取り合わなければ、いざ当日現場に入ってから「聞いていない」「協力できない」とそっぽを向かれ、最悪「押しつけがましいボランティア」と言われかねない危険性を痛烈に感じました。
しかし、誰がその現場を統括しているのかは、状況が日ごとに変化している場合もあるので、見極めが困難です。幸い、今回は地元と密接なつながりのある佐々木さんの取り計らいで、何とか宮古市保健センターと連携がとれるようになりましたが、よその土地から飛び込みで入った場合はここまでに至るのは至難でありましょう。近畿からのアドバイスにもあった通り、避難所で音楽療法を実現し運営していく為のキーパーソンは地元の保健師です。音楽療法を取り入れてもらうために、各地の保健センターに出向いて、働きかけを行うのが一番の近道であると思われます。
また、1週間経過して再び訪問した避難所は、前回よりも住民の皆さんの「不機嫌さ」が際立っていました。行動や言動からは、自動車のハンドルでいうところの「あそび」がかなり消失して、こちらが驚くほどにダイレクトな感情を他者へとぶつけてきます。言葉づかいも以前よりかなり直截的だと感じました。
命の危機を脱して、素直に感情を表出できるようになったのか?
長い避難生活での疲れ、焦り、いらだちで他者に接する際の余裕が無くなってきたのか?
憶測で判断するべきことではありませんが、先の見えない避難生活が続くにつれ、住民の皆さんの緊迫した心理状態はさらに深刻化していきそうな予感がします。

9月 11

一番最初の被災地訪問 2011/4/16-17

今日9月11日で、東日本大震災発生から1年半が経過しました。
震災当日、私はサイコドラマの増野肇先生から声をかけていただいた仕事で上京しており、友人と一緒に吉祥寺のオープンカフェでお茶を飲んでいました。大きく揺れたと思ったら、母と通話中だった携帯電話がいきなり不通になったので驚きました。
それから知人の家でニュース映像を見て、この地震が未曾有の大災害であることを知り、沿岸に住む親戚知人の安否が心配になりましたが、連絡の取りようが無くただじっとテレビ画面を見つめるだけの日々が続きました。
(岩手に帰る交通手段も無く、帰宅できたのは1週間後でした)
半月後、私は仕事先の大船渡市盛保育園で卒業式にお招きいただき、初めて実際に被災地となった沿岸の惨状を目の当たりにしました。ガソリンが手に入りにくいこの時期、運良く満タン近く残っていたガソリンを頼りに大船渡から三陸の道を北上し、釜石~山田~宮古と移動。何度も音楽療法で訪れた仕事先の建物が無残に壊れているのを見て、胸が痛みました。
愛車レガシーのタイヤは、この時に瓦礫の中を走行したため、一発でタイヤが駄目になりました。
私に被災地で音楽療法をするチャンスが到来したのは4月に入ってから。
宮古市在住の音楽療法士・佐々木良恵さんから連絡をいただき
「私は既に保健師さんから避難所で音楽療法をやってくれ、と依頼を受けて活動を開始していますが、一人では回りきれないので誰か内陸の方が助っ人に来て欲しいんです」
と言われ、真っ先に私が立候補しました。
その最初の仕事を書きます。
山田町 19:00-20:00 豊間根中学校体育館
会場となった中学校に到着すると、体育館の入り口でラーメンの炊き出しをしている若者から
「食べていきませんか」
と声をかけられました。とても美味しそうだったけど、仕事前だったのでご遠慮申し上げました。
体育館の中は夕食後、まったりと寛ぐ多くの人がいました。
ぐったりと横になる人がいる空間で、これから大きな音でキーボードを弾き、大きな声で歌を歌うのか‥と、気持ちが揺らぎました。まるで他人の家の寝室に上がり込んでいるような感覚です。
役場職員の男性たちが、パイプ椅子を真ん中に並べて、設営を手伝ってくれました。
時間になり、躊躇はありましたが自分の役割を果たそうと思い、音楽療法を開始。
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(携帯で撮影したので画像が粗いです)
すると、以前山田町の保健センターで行った音楽療法に参加してくださった、北浜地区(被害が大きかった場所)の女性が声をかけてくださり、無事がわかって私も安堵しました。と同時に、音楽療法経験者である彼女が楽しそうに歌っている様子から、それまでどんよりと曇りがちだった場の雰囲気を明るく牽引してくれました。
活動を終え、荷物を一緒に車まで運んでくれた役場職員の方が
「家も家族も流されたばあちゃんたちが、あんなに屈託なく歌って笑っているところ見て、俺泣きそうになりましたよ」
と言ってました。
その晩は宮古市内のホテル古窯に泊まりました。
宮古市 10:30-11:30 宮古小学校体育館
入口で職員の方と少々押し問答があった後、事情を知っている保健師さん(遠隔地から派遣された方)に取り次いでもらい、ようやく中へ入ると、前日の豊間根とはうって変わって、段ボールの仕切りでそれぞれのスペースが確保された形態の避難所でした。
活動準備をしている最中、何事かと思って近寄って来た小学生の女の子に
「なにするの」
と聞かれ
「みんなで歌を歌うんだよ」
と説明すると
「わたし、音楽嫌い。聞きたくない、やめて」
と強い口調で言われました。でも仕事だからね、となだめようとした途端
「嫌だって言ってるでしょ!!」
と、キーボードのアダプターをコンセントから抜き、床に投げ捨ててそのままどこかへ去って行ってしまいました。
気を取り直して活動を始めましたが、会場内の人は誰一人、用意した席には座りません。
目の前に誰もいない状態で、持って来た歌詞を提示しながら何曲も何曲も、弾き歌い続けました。
佐々木良恵さんが二人の女性を連れてきてくださったのですが、そのお二人もすぐにどこかへ行ってしまいました。
こうして誰も参加者がいないまま時間になり、荷物を片付け撤収。
体育館の出口に差し掛かったあたりで、会場からパラパラと拍手が聴こえてきました。
そして一人の女性が近寄ってきて
「いつも膏薬を足に貼る時に痛くて苦しいんだけど、今日は歌を聞きながらやったから痛くなかった。ありがとう」
と言ってくださいました。
この日から8月上旬までの間、避難所巡回の日々が始まったのでした。