インタビューに答える

先週末の土曜日はトヨコさんと楽しく巡回しつつ、家に預けてきたタンタンが初めて脱走したり、午前中のあゆみ公園に地元の報道が取材に入ったりと、非常に賑やかで忙しい一日でした。

(翌日さっそくGPS発信機を買いに走りましたよ)

取材は二日後の月曜日にも受けました。その場で、これまでの経緯や変化などについて質問され、答えているうちに自分でも忘れていたこと、ぼんやりと感じていたけど言語化できなかったことなどが、鮮明にはっきりと口から出てきて、我ながらちょっとびっくりしました。三年間、ほぼ毎週末に行ってきた膨大なセッションや出会ってきた被災地の人々とのやりとり、彼らの様子の記憶は、全く失われないまま私の心と脳にしっかり刻み込まれているようです。

「被災地支援を始めようと思ったきっかけは?」

あちこちで何度も話し、文章にも書いてきましたが、震災直後にテレビのニュース番組で見た「避難所でぐったりしている人々のすぐ耳元で大音量のバイオリンが奏でる童謡“ふるさと”に両手を合わせておがむお婆さん」の映像があまりにも衝撃的だったから、と答えました。あれほど音楽が侵襲的な存在に見えたのは生まれて初めてでした。本来、音楽は人の気持ちを和ませ、人の心を今ある場所から遠いところへと運ぶ夢のような存在であるべき、と考えてきた私は「被災地で音楽を用いて支援をするということ」をじっくり考え、安易に支援に入ってはいけないと警告されたようにも感じました。それ故に、自らやみくもに現地へ向かうことはせず、現地からのニーズが生まれてこちらに支援の呼びかけがあってからにしよう、と決意しました。

「これほど長く継続してきた原動力は?」

二つあります。ひとつは宮古市第二中学校仮設へ数度訪問し、仲良くなった支援員さん(ご本人も被災して仮設暮らしをしている男性)から「ここにいる被災者は不自由な仮設暮らしから脱却するのに、あと四年はかかるでしょう。どうぞそれまで長く続けて下さい」と言われたこと。もうひとつは、大槌町の仮設でお話をしている最中に、一人の女性が「絶対に仮設の部屋で死にたくない、自分の家と呼べる場所に移るまでは死ねない」と悲壮な表情で語ったことです。その方は地元の医療関係者の訪問を断っているのに、音楽療法の時だけは外に出て他者と交流できるとおっしゃってました。彼らがいずれ自分が望む生活へと移行する日まで定期的に見回り、暮らしに潤いがあるのかどうか、健康状態は良好かどうかを見守っていく役割を担って行こうと思い、継続しています。

「挫折しそうになったことはありますか?」

中断しよう、とか終了しようと思ったことはありませんが、心が折れそうになったことが一回だけあります。それは東京から学生が被災地支援の見学に来るという朝に駅まで迎えに行く道中、正面から来た自動車がこちらに追突してきた事故に遭遇し、裁判沙汰にまでなった時です。所属していた職場の休みを利用して個人的に活動していた私は、もしもの時(事故や事件など)の保障が無いまま徒手空拳でやみくもにつっぱしっていた自分の状況に初めて気づきました。この経験がきっかけとなり、一般社団法人東北音楽療法推進プロジェクトを設立する意思を固めました。逆境のおかげで、より一層深く被災地支援へ取り組む決意ができたと思います。

「震災直後と現在を比較して、どういう変化があると思いますか」

震災直後はとにかく生活をどう立て直すのか、どう生きていけばいいのかが最優先課題でした。今もある意味そうですが、いつ仮設の生活から脱却できるのか将来の展望が持てない現在は、どう暮らしていけばいいのか、という漠然とした靄のような不安に向き合って日々を過ごさなければならない状態にあります。私の師匠的存在である精神科医の松井紀和先生が私の活動を見に来てくださったときに、言ってくれた言葉が「津波という辛い喪失体験をした彼らにとって、君のやっている楽しい音楽療法という体験の積み重ねが大事だ。音楽療法士の得意技は直感を信じる力、感じるままにやっていきなさい」でした。被災地支援の音楽療法という未知の領域で孤軍奮闘していた私にとって、何より力づけられる言葉となりました。3年経過した今、継続的に関与してきた仮設の皆さんは、私のやっている活動に来ると「これからどういうことが起こるのか」の見通しがつき、それを楽しみに日々過ごすことが出来ると言ってくれています。

…以上のような質問を受けて、これらのような答えを言ったような気がしますが、文章のようには理路整然では無かったかと思います。でも、たまにこうやって人に話すのは大事ですね。整理が出来て、発見もあります。

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